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Twitterの内包する潜在的危険性-「新しい群衆」の誕生?
実際のところ、「口コミ」として用いられている面が大きく、それが単なる「つぶやき」という
一方的なものではない、というのも事実でもあります。
相互的なコミュニケーションとしても用いられるTwitterですが、それは本当に「ネット」という
文字の通り網の目のようで、全てが連関しているもので、昔の人間の口コミもある程度の
伝播性を持っていましたが、リツイート(RT)という機能が多様されることにより、
その情報の伝播性は極めて高く、瞬時的にもなっています。
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先日、北朝鮮が韓国沖合の島を砲撃するという事件があり、その時にTwitterを
行っていましたが、そこにおいては極めて情報が錯綜し、動揺をかなりの人々がして、
様々な言論が交わされていて、私も混乱し自分の思う考え、想定しうることなどを
投稿してしまいましたが、ある方が「もっと冷静に、情報の確実性を確認してから論ずるべきでは」
とおっしゃられているのを見て、確かにその通りだと思うとともに、私は以前から
Twitterに関して思っていた、Twitterという伝播性の高く匿名性もある程度ある
メディアにおける、デマの発生やアジテーションによる集団パニックの発生の危険性を
思い出し、私もまた、そのデマの発生に関わってしまったことに愕然としました。
口コミでのデマとアジテーションによる集団パニックの例としては、
戦前の関東大震災の時の、朝鮮人の方々に対する自警団による大量殺害行為が
あるかと思います。大震災が起きた直後、「朝鮮人が暴動を起こし、井戸に毒を入れて、
放火して回っている」というデマが、どこから発生したのか分からないですが生じて、
結果、当時の国会議員の調べた統計で約2600人の朝鮮人の方が殺害されてしまった、
というのは、レイシズムが根底にあったことや、朝鮮人の方々が日韓併合に関して
不満を持って憎悪を持っているのではないか、ということが、心理的バックグラウンドにあって、
のことかもしれません。
結果的には、朝鮮人の方による大震災時の犯罪の認知件数は、殺人2名、放火3件、
強盗6件、強姦3件で、実際のところ日本人での犯罪発生率と代わりがなかった、
むしろ殺人に関しては先述のように2600人もの殺害を行ってしまった、という
結果になってしまいました。
その他、口コミによるデマでの集団パニックの例でよく引き合いに出されるのは
豊川信用金庫事件ですが、その事件は女子高生の何気ない、雑談での冗談が
発端となったものでした。その雑談での冗談が、口コミという形で伝えられていくごとに
確信性を持って断定され、さらに情報ソースのない憶測が事実として情報の補強がなされ、
結果的に5000人が豊川信用金庫に押しかけて取り付け騒ぎが起きる、という
事件が起きたものでした。
当時は、大蔵省の護送船団方式によって金融機関は保護されて金融自由化後の
現代では当たり前になってる銀行の倒産が起こりえず、「失われた20年」という、
現在進行形の経済の衰退ではなく、高度成長期の後期に当たる1973年という
時期であったのにも関わらず、そのように多数の人が「豊川信用金庫が倒産するかもしれない」
とまことしやかに信じたのは、極めて衝撃的なことで、取り付け騒ぎに参加したのが
5000人というだけで、実際は半信半疑も含めれば、信用に値する情報だと思った人は、
かなりの数になるのではないか、と思います。
元々古典的な「群衆」概念は、オルデガ・イ・ガゼットの否定的な群衆論もありますが、
エリアス・カネッティの群衆論を用いれば、個人個人がそれぞれ存在している中、
何かしらの要因が加わって、ある臨界点を超えると、個人が「液状化」し、群衆が生じる、
とされます。そして、群衆とは第一に「群衆はつねに増大することを望む」、
第二に「群衆の内部には平等が存在する」、第三に「群衆は緊密さを愛する」、
第四に「群衆はある方向を必要とする」というものがあり、これは極めて的確で、
カネッティはさらにそれぞれのその大小の差によって、さらに「迫害群集」「逃走群集」
「禁止群集」「顛覆群集」「祝祭群集」の五類型に別れる、と論じています。
「迫害群衆」は、スケープゴートなど、方向性が強いもので、先述の関東大震災での事件が
これに当たるかと思います。「逃走群衆」は災害などで見られる、例えば火災の起きた
映画館で一斉に人々が出口へ殺到するもので、ここにおいては、増大と緊密さが、
「みんなが向かっている先だから安全だ」という権威付けにもなるということがあり、
これは豊川信用金庫の取り付け騒ぎが例としてあるかと思います。
そのように、民族対立的など、心理的バックグラウンドの火種のあった
関東大震災のケースだけでなく、あまりバックグラウンドのなかった豊川信用金庫事件の
ケースなど、口コミでのデマとアジテーションでの集団パニックは、
正直、いつ、何を元にして、何を原因として、何に対して、何が起こるか分からない、
というものであり、口コミの手段としても広く用いられているTwitterは、
楽しいツールであるとともに、いつそのような人間が持つ集団心理、「群衆化」を
引き起こすか分からない、という危険性、恐怖が、古典的な口コミとは違い、
コピー&ペーストとリツイート、その「リツイートされたもの」ということによる
権威付けが、実はリツイート時に部分的なり全面的なりで改変されたものである
可能性を忘れさせる危険性がある、など、様々な現代的な危険性があると、
個人的には思います。
考えられる危険性としては、政治家や企業経営者、学者、芸能人、知識人など、
様々な著名人という権威のある存在からの何気ない発言、例えば「Aかもしれない」という
発言が、リツイートや「○○さんがAかもしれない言っていた」というツイートにより
爆発的速度で伝播していき、情報が「Aらしい」から、「Aだ」に代わり、「BでAだ」
「CでBなAだ」と付け加えられていき、最終的には「みんな」が思い込みたい情報に
合うように情報が予定調和的に整形させられ、「DでありCでBだ」と、
元々の情報とはかなり異なる内容になりえて、その情報が著名人や
様々な報道ソースやネット上の情報による権威付けがなされて
真実かどうかの検証がなされず一人歩きしていく、といった現象がありうる、
と個人的には思います。
そのような、孤立したスタンドアローンである個々人の口コミが、コミュニケーションする
うちに無意識的にゆるやかにその群衆化して全体の総意のように形成されていき、
その形成された「全体の総意」という権威に個人が従うという現象が起こりうる危険性が、
士郎正宗の「攻殻機動隊」において、「スタンドアローンコンプレックス」として描かれています。
私はそのスタンドアローンコンプレックスについて、あるお友達の方からお聴きしたので、
自分で思ったわけではないのですが、wikipediaでの「スタンドアローンコンプレックス」
に関する記述をそのままお借りすれば、
作中における電脳技術という新たな情報ネットワークにより、独立した個人が、
結果的に集団的総意に基づく行動を見せる社会現象を言う。孤立した個人(スタンドアローン)
でありながらも全体として集団的な行動(コンプレックス)をとることからこう呼ばれる。
これは個人が電脳を介してネットを通じ不特定多数と情報を共有することにより、
無意識下で意識が並列化されながらゆるやかな全体の総意を形成し、
またその全体の総意が個人を規定するために発生するという、高度ネットワーク社会が
舞台であるが故に起こり得る現象である。
という現象であり、twipicや短縮URLサービスによるweb上の情報リソースなどを
付加できるようになったTwitterは、まさにこの現象を起こしうるのではないか。
その結果、古典的な群衆論も踏まえた上で、インターネットという情報伝達手段により、
「新しい群衆」が誕生するのではないか。Twitterの場合はリツイートなどや、
アカウントが実際の問題としてフリーメールで作ることができるように、
ある意味では匿名性が掲示板よりも高いので、流言飛語や風説の流布の
責任が問われにくく、不確かな情報を伝えることに関する重み、自覚がなく、
また口コミとは異なって、複数アカウントでの自作自演も可能、ということで、
作為的にデマやアジテーションで集団パニックを起こすような事件が起きるのでは、と
懸念を抱いてしまいました。個人的には、これから先も楽しいコミュニケーションで
問題が起きないのを願うばかりです。。
あるTwitter初心者のつぶやき
ブログ、Twitterともども、どちらも長い間、放置気味で大変申し訳ありませんでした。
Twitterというものを理解するのに少々時間がかかりましたが、
今のところ、私なりの理解をできているのではないかと思います。
Twitterとは「つぶやき」ですが、最初そう意味するとは聴いていましたが、
その意味がよく分かりませんでした。facebookやmixiなどアカウントで
制限があるならともかく、Google検索で検索すらできてしまう状態で、
フォローを許可していない相手も含めた不特定多数の人々「つぶやく」というのは、
正直「個人情報的なものを今の時代、mixiなどですら不安なのに、そのように
気楽に書けるものではないはずで、利用している人はなぜその不安を理解した上でも
利用するのだろう」「Google検索でひっかかるので個人情報的なものが書けないのに、
日常的なことをつぶやくとは、何をつぶやけばいいのだろう。例えば友達や家族との
ことにしても、地名やその人の名を出さなければならないし、それをしないとすれば、
つぶやけることはほとんどないのでは」「結局、芸能人や政治家、企業経営者、学者、
知識人など公的立場にある人々がつぶやいたのを、眺めるものなのだろう」
と、Twitterについて考え、それが先入観になり、利用をせずにいました。
お話が変わって、人間の心とは、もしもお互いが理解し合えるのならば、
素晴らしい世界を築けるであろうものなのではないか、というのが、
私の人間性論の持論です。「それは性善説でリアリティがないのではないか」
とおっしゃられる方がいらっしゃるのは当然よく分かりますが、
あくまで私の申し上げているのは、「心」の問題で、仮にもしもそれだけが
存在できて、そしてそれがコミュニケイトするならば、のあくまで
仮想モデルでのお話です。実際、人間は普通に自分の「心」を理解してもらえるのが
とても嬉しい喜びであるのは、体験された方もいらっしゃって同意して下さるのでは
ないのかなと思います。
では実際の現実世界はどうかといえば、そうはいかない様々な問題があります。
何よりもまず制約となるのは、「肉体」ではないかと思います。
それは、私たちはランダムに割り当てられる「肉体」に縛られ、能力差や差異や
心ではなく大脳生理学的な差異を持っているというのと、その「肉体」が
心で思っている事を正確に表現できているとは限らない、といった問題があります。
極端な例では、歯が痛くてしかめっ面をしているのを、相手は怒っていると勘違いする、
逆もまた同じで、相手が歯が痛くてしかめっ面しているのを、相手を怒らせたと勘違いして
へこむ、といった例があると思います。
そして「肉体」で声に出すなどして相手に伝える、表情に出す、行為をして表す、
などをしない限りは、「心」で思っている事がいくらあっても、相手には届かず、
というよりも知るよしがない、といった形での「不理解」が生じ、
そのために人間は様々な「誤解」や「行き違い」などの苦しみを感じるのでは
ないのかな、と思います。
やや抽象的なお話になってしまいましたが、「肉体」を持った、実際の人間関係は、
そのように、例えば思った事を伝えたくても言い出せなかったり、うまく表現できなかったり、
生活空間は必ずしも「話すのが前提な場」ではないので、誤解が生まれ、誤解を生み、
疑心暗鬼や人間不信など、様々な不幸を生み出してしまいがちなのでは、と思います。
その結果、私たち人間は「自分を理解してくれる人が自分だけだという圧倒的『孤独』」
にさいなまれてしまっているのではないか、と思います。
そして、その問題がさらに深刻化した場合は、人間は、物理的に、
つまり「肉体」と「肉体」に隔てられ、私はここに「いる」が、他人はそこに「いる」、
と違う存在としてあるわけですが、例えば幼少期が一番大きいですが、
思春期とそれ以降の経験も含めた経験などで、「肉体」を持つ「自分という心」が、
他者という「肉体」が声や表情といった形で自分に伝えてくる事が、傷つける、
否定する、拒絶する、裏切るものばかりだったとすると、
人間は、カレン・ホーナイの言葉をうろ覚えで自己解釈でお借りしていうならば、
自分の「心」の外の世界とは自分を傷つけるだけの残酷な世界であり、
自分を理解する存在、愛してくれる存在はいない、といった「原初的不信感」
「原初的怒り」「原初的絶望」といった「基底不安」を抱くようになってしまいます。
そして、それは、「共感可能性」について、「共感可能性のある存在しない」
といった絶望的確信を持つことになり、その結果、極端に表現すれば、無意識的にでも
自分以外は「物理的にそこに『ある』、刺激とその刺激に反応を返すタンパク質」
という、『他者との共感可能性の否定と、それゆえの他者の「モノ化」』に至り、
その人は「完全な孤独」と「他者という『モノ』を扱う自由」を、「リアリズム」という
単語などで自己表現して思うようになるのでは、と思います。
そのように無意識的にみなすことで、「自分と同じように心を持つ他者は存在しない」
と思うからこそ、私たちの生きる現実世界においては、他人を道具として用いる人、
楽しんで人を傷つける人、もしくは傷つけられた傷つける権利がある、
という同態復讐法での正当化論理で思う人、などが当然ながら生まれるという、
この世界の悲劇があります。
他者の「モノ化」、つまり、自分と同じ他者は存在しない、と思うのは、
私たちがコミュニケーションをしない限りは、「他者」という「肉体の中にある心」の
存在を認識できず、かつ、私たちがコミュニケーションをそもそも行うか、
という、共通了解可能性が必要かと思います。この、コミュニケーションと共通了承とは
「話すこと」ではなく、相互理解を行う努力をすること、を意味します。
コミュニケーションの可能性を追求している第一人者であるユルゲン・ハーバーマスは、
私などよりはるかに深い洞察をされていらっしゃるので、そちらの御著書を
ご参考頂くのが一番ですが、先述の個人的経験からの基底不安などによる
人間の「モノ化」もありますが、社会哲学者であるハーバーマスは、
人間が他者と行う主に言語的相互行為として、「コミュニケーション的行為」と
「戦略的行為」の二つに分けて論じていますが、「戦略的行為」とは簡単に申し上げますと、
文明の発達により複雑化した社会システムの運営上などで、他者を道具・手段として
目的合理的に利用するための、「命令」だったり「通達」であったり「取引・契約」であったり
することです。
ハーバーマスは、その中で「コミュニケーション的行為」、すなわち、
人間相互が相互理解を努力する前提で相互理解しようとコミュニケーション
することの重要性を何よりも主張していますが、現実社会をよりよくするための
現実的方策として主張しているハーバーマスは、人間の「モノ化」などによる
「戦略的行為」は社会システムを動かすために必要なものであり、
否定できず、『コミュニケーション的行為』のみでは成り立たない、という立場で、
とても現実主義的で、プラクティカルな内容を主張しています。
しかし、私個人としては、インターネットを利用するようになってだいぶ経ちますが、
インターネットが先述のような、「肉体」から解放され、「心」だけで疎通できるかも
しれないもの、ということを始めた時に希望を抱いた事がありました。
それはインターネットの場においては、掲示板、チャット、そしてTwitterという
「コミュニケーションするための場」においては、たいていの人は趣味や楽しみでしていて、
社会システムを動かすためや、自己利益の追求のために、その場でコミュニケーション
をしようとしているわけでは、たいていの人の場合はないのではないか、と思ったのがありました。
もちろん、先述したような、基底不安的なものがあり、「他者をモノ化」している人の中で、
煽るなど「刺激」をすると、面白い「反応」を返す、「刺激とその反応を楽しめるモノがいる場」
というような感じで、掲示板やチャット、Twitterなどのコミュニケーションツールを
使っている人がいるのは、当然ながら否定しません。しかしながら、インターネットが普及して
15年経った今ですらも、多くの人は失望をしたり傷ついたりしながらも、そういった
コミュニケーションの場を求めるのは、先述させて頂いたように、
「圧倒的孤独」の苦しみがあるからこそではないか、と個人的には思います。
そうだとするならば、Twitterというものが何故ここまで社会に
受け入れられているか、をTwitterを行って経験してそれを私なりに考えてみると、
Twitterは「つぶやき」という孤独な行為だと先述しましたが、
それは「自分を理解して欲しい」「受け入れて欲しい」という想いからの、
「戦略的行為」など社会システムの複雑化により「モノ化」された自分、
また相手を「モノ化」している自分が陥っている孤独の苦しみにおいて、
コミュニケーション的行為を求める「救難信号」であり、そしてその信号は
インターネットで繋がるTwitterの世界の人々が受け取れて、
肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、「なるほど、私はこう思った」と
ボールが返してくれる人がいるかもしれない、という希望の場なのかもしれません。
そしてそれは、そのような「コミュニケーション的行為を求める人々が多い場」で、
かつ文字なりボイスなり、何かしらの方法で、自分の「心」を発話をしてもいい場、
現実世界のように、発話していい場なのか分からないという事がない場、発話しなくても
現実世界でその中で黙っていると気まずいのとは異なって、ROMして眺めて
気にとまったことがあったら、その時発話したり、しないでROMしたまま眺めたりできる、
コミュニケーション的行為の世界を、相互的でなく片務的に気軽に覗きみることが
できる場、という特殊性があるのだなと個人的には思うのが一つあります。
そしてさらにTwitterに関しての特殊性をいえば、掲示板やチャット、
HPやブログなどの場の場合、主張や会話などのような、他者を前提として構成しなければならず、
感情的、気持ち的なことを一方的になど吐露することは、すべきでないとされるいる場と、
インターネット上の了解としてあるものだと思いますが、Twitterはその場合と異なり、
それは「つぶやき」であり、「心」が純粋に吐露されるのが目的の場で、
その吐露されたものに、もしも応答があって、理解してくれる人がいるのならば、
それは最初の方で述べさせて頂いたような素晴らしい感動をその人は感じられるのでは
ないのかな、と思います。
そのようにtwitterの段階ではまだ、「自分の心のつぶやきを理解してくれる人がいる
喜び、感動」という片務的なもので、双務的な相互理解ができるのが保証される場ではない
ということがあるとは思いますが、少なくとも、孤独化した個人がその喜びを感じられるなら、
それは確かに革命的な場なのではないかな、と個人的には思います。
双務的な相互理解が完璧にできる場、というのはなかなか難しく、思いつきませんが、
インターネット上の言論空間とは「コミュニケーション的行為のみが存在しうる
現代のユートピア」として、人々は希望を抱かざるを得ないくらいの魅力ある場であり、、
インターネットを利用しはじめてだいぶ経ちますが、私はTwitterを利用して
そのような以前考えたこともあったけど、Twitterはそのユートピアを部分的にせよ
片務的に実現できたりする事があるからこそ、普及しているのかもしれない、と
インターネット秘める可能性について、再び個人的に考えてさせられてしまいました。
ロベスピエールとルソーのユートピア思想とその差異
理想主義、ユートピアニズムは20世紀のロシア革命など、様々な功罪を
生み出してきましたが、ユートピアという単語自体は、トマス=モアの造語で、
そこからがユートピア文学の始まりだといわれているかと思います。
しかし、思想としての理想主義、ユートピアニズムは、古くはプラトンの時代から
存在しており、現在も継続中ではあります。その人類の長い歴史の中で、
特に、ユートピアニズムの盛んになったのは、一つは社会契約説の誕生からの、
民主主義思想の開花、そして、産業革命以後の社会主義思想の発達の2つが、
少なくとも第二次世界大戦以前まではあったかと思います。
その中で、社会契約説の論者として有名なジャン=ジャック=ルソーが政治思想史上で
取り上げられますが、彼の影響を受けたとされる、フランス革命における「狂気の独裁者」として、
少なくともあまり肯定的には評されておらず、フランス革命という歴史における登場人物としか
描かれていない、マクシミリアン=ロベスピエールのユートピアニズムが、歴史的には
存在していると思います。その両者の思想は、確かに類似する面がある一方、
決定的な差異があり、それによって、フランス革命という思想の具現化において、
ロベスピエールは過ちを犯し、そして人々を大量処刑にするという、「狂気の独裁者」へと
なったのではないかと思います。
しかし、否定的に描かれるロベスピエールの思想について、彼とルソーとの類似する面、
そして、決定的に違う点について考察することは、現実政治におけるユートピアニズムのあり方を
考える上で必要ではないか、と思います。
ロベスピエールは1758年生まれの法曹家出身の政治家ですが、
思想的にはルソーの影響を色濃く受けた人物で、そのルソーの人権、民主主義、
なにより「自由」と「平等」を、求めていて、実際、ロベスピエールが後に志向した事は、
ルソーの「政治的共同体は同時に道徳的共同体でなければならない」という思想に
極めて一見類似したものではありましたが、実際のところは、ルソーの自由概念、
平等概念とは、ある意味では類似し、ある意味では似て非なる、
彼の独自的解釈と独自的思想がありました。
ルソーのテクストでは、確かにロベスピエールのように、自然権は生来のものと
しても、実際の市民的自由は、共同体の法によって規定されると考えていました。
しかし、それと同時に、それは、その共同体、「共和国」においての市民の
「道徳的自由」に基づく市民による法の自己決定によらねばならない、
という、「共和主義」、というよりも、「市民が『道徳的自由』に基づく共同体の
『法の自己決定』を前提とした上での共同体主義」という、能動的市民による
平等主義、民主主義がその内容でした。
そして、ロベスピエールが確実に影響を受け、かつ間違った解釈をしたであろう
ものとして、「カソリックを主とした、キリスト教思想の批判」がありました。
それは、一見、ロベスピエールの主張に似ていて、まったく非なるものなのですが、
つまり、「人間は『原罪』を負う故に、人間は不完全な存在であり、ゆえに
人間の不完全さを矯正するため、神の目的への奉仕をすべきであり、それでしか、
人間は救われず、政治などでは決して人間は根本的には救われない」という
当時のカソリックを主としたキリスト教思想に対し、ルソーは「原罪」を否定して、
人間の自然的善性の存在を信頼し、ゆえに人間はキリスト教を通した受動的救済
ではなく、道徳的自由により自然的善性の発露に基づく人間の共同体の法の自己決定での、
人間の能動的な、具体的には共同体という、政治に基づく人間の『自由』と『平等』」
をなにより訴えていました。その結果としての、ルソーの「市民宗教」という、
既存の受動的救済というキリスト教思想に対抗した、「人間の自然的善性を信じ、
それによる自由と平等を達成する、道徳的自由に基づいた市民による自己決定による、
倫理的信仰の確立」を提唱しました。
翻ってロベスピエールの主張はどうだったか、といえば、確かにロベスピエールは、
初期には確かにルソーの思想を信念とし、人間の自然的善性を信じていました。
そのため、元々判事、弁護士であった法曹家の時や、国民公会での初期の主張は、
人権派として、死刑廃止法案の提出、それまでのフランス刑法において行われていた、
犯罪者の家族も罰するという事を廃止し禁止する法案の提出や、当時行っていた
フランス政府の対外戦争への反戦の主張など、「人権への信念」「人々を救いたいという気持ち」
は確かにありました。
しかし、ロベスピエールは、自らの理想、「自由」と「平等」のために、
市民の自己決定の間接的方法としての、国民代表制に基づく国民公会から、
自らの「理想」に異議を唱え反対する議員、会派を、「公安委員会」や「保安委員会」
による大量逮捕と、「革命裁判所」による大量処刑を行い、「自分が人民のための
政治を行うためには、市民の自己決定としての国民代表であった反対派議員や、
もしくは反対派そのものは『人民の敵』であり、排除しても、人民のための
政治を私は行うのだから、これは必要な事だ」という、「『大義』のための小義として、
『大義が達成されるまで』の民主主義の否定や『人民の敵』という『悪』に対する
処刑、そして『悪』の思想や宗教の禁止の正当性の信念」を持ち、自らの行っている
恐怖政治の「恐怖」を「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」として、
『人民のために』必要な大義であると信じ込んでいました。
そして、先ほど申し上げた、「キリスト教など宗教の否定」ですが、
これはルソーの「市民宗教」に一見似ていて、まったく非なるもので、
「人間の理性が、能動的に主体として構築した、『至高の存在』への信仰」、
言い換えれば、「理性中心主義に基づいた『倫理』『正義』への信仰」を
主張しました。この、理性中心主義とは、一見ルソーに似ていますが、
それとは異なるのは、ルソーが「人間の自然的善性に基づく、自己決定による
能動的な『道徳律、共同体倫理としての法』」としていたのに対し、
ロベスピエールの「至高の存在」への信仰という「世界宗教」という概念は、
あくまで「『人間存在』の理性」の主体的能動によるものであり、
「『実在する共同体内の市民』の自然的善性を信じた道徳的自由による能動的な
倫理、道徳の確立」ではなかった、という決定的な違いがあります。
しかしながら、残念ながら、ロベスピエールがルソーを誤解していたか、
というと、実際のところ、ルソー自身は、「共同体の市民の自然的善性への
信頼による、道徳的自由での法の自己決定」だとして、何度も断りを
入れているのにも関わらず、「社会契約論」を始めとしたルソーのテクスト
の中においては、市民個々人の持つ、「個別意思」に対し、自然的善性を
持つ市民たちが作る共同体の法とは、人間の持つ自然的善性の平等性がゆえに、
「一般意志」として一致し、ゆえに「共同体の一般意志は、個別意思に優越し、
市民は、『自由であるようにするために、(一般意志を)強制される』として、
結局は「一般意志」という、ロベスピエールの信じていた「理性中心主義に基づき、
人間理性というものがたどり着く倫理的帰結としての全体意思への人民の服従義務」
という思想と、結局は一致するという意味で、ある意味では確かにディテールや論証自体は
似て非なるものなのですが、「結論」は極めて似通っている、という、事になるかと
思います。
両者に共通しているのは、「『異質』な『他者』のいない共同体」、
もっといえば、「『在る人間』ではなく、『在るべき人間』の平等な『共和国』」
という、「在るがままの人間」ではなく、「在るべき人間」に基づく政治とは、
実際のユートピア思想、もしくはユートピア思想に名を借りた、
「全体主義思想統制の正当化」において、見られてきたようなものかと思います。
ルソーとロベスピエール決定的な違いがあるとすれば、ルソーは、「一般意志は市民が最終的に
合意できるもので、かつ、一般意志には服従しなければならないが、その一般意志と服従義務を求める決定の
政治プロセスとしての、民主主義、もしくは共和主義による手続的正義がなければならない」
という、自由主義的民主主義ではないにしろ、全体主義的民主主義という意味での
民主主義者であったということがありますが、ロベスピエールの場合は、
「人間理性の帰結としての正義、倫理があり、それを規定する事は『今現在は』人民は
『人民の敵』による惑わしなどによって『正しい』政治判断を行えないので、
恐怖政治によって服従義務を履行させる」という、理性中心主義による独裁の正当化という、
フランス革命のこのロベスピエール自身の行った、
「『大義』のための非民主的手段によるユートピアの実現」という政治志向は、
その後の、大きな例ではロシア革命とその後の暴力革命主義的な一部の共産主義運動や、
もしくは、極左の例がわかりやすかったですが、極右では、古典的には
「小義の切り捨て」とは違いますが、もっと原始的な、「『大義』は大衆は理解できず、
衆愚政になる、という、専制君主や君主への服従義務による強権的保守主義による
パターナリズム運動」から、それに似ていますが、
「『大義』が絶対的であり、民主主義などは『小義』どころが害悪でしかない」
という、現代ファシズム運動があるかと思います。
お話が逸れましたが、そのように「自分の主張、ないし、支持している
思想や掲げられている体制が、今は大衆は理解できないだろうが、最終的には
全員が帰結し全員に正しい倫理であるのだ」という、独善主義、ないし、
「多元主義の否定」というものは、右翼左翼の問題というよりも、自由主義的民主主義、
もっといえば、散々お話が逸れて、ようやく戻らせて頂きますが、
「人間の『多様性』と、個人の自由な『人間性』の尊重」
という、民主主義の根源的思想の欠如によるものであり、
そのような、「個人の自由意思を無視したパターナリズム」に基づく、
「多様な人間存在の否定」とその結果としての「多様、多元的な文化の否定」の恐怖と、
そのために「個人の自由な人間性の尊重」の意味を考えずにユートピアを求める事は、
極めて危険なことではないかと思います。そのような、「非原子論的個人概念」の尊重の
欠如こそが、近代ユートピアニズムにおける問題点であり、私たち現代は、
だからといってユートピアニズムは危険だと否定をするのではなく、
それを乗り越えた、新たなユートピアニズムを模索することが大事なのではないかと
個人的には思います。
○後書き
確かに、「非原子論的個人概念」での「自由」と「平等」の対立はあり、
それがあるからこそ、平等主義を志向するユートピアニズムは「自由」に対して
制限的になりがちなのかもしれませんが、しかし正確に言えば、その「自由」と「平等」とは
「経済的自由」と「社会的平等」の対立であり、その点で、
本来は「自由」とは、「経済的自由」や「精神的自由」のような、
古典的な「国家からの自由」だけではなく、現代自由主義においては、
参政権が主ですが現代では政治に限らず社会一般への参加など「国家への自由」や、
いわゆる累進課税と福祉政策による経済的格差の『縮小、緩和』などが例の、
パターナリズムでない意味の範囲内に限りますが、「国家による自由」が
「自由」だからといって否定されるべきではないのは、
「国家からの自由」や「国家への自由」など、形式的平等や形式的自由が
認められていても、社会的不平等があると、空虚な形式的平等や形式的自由
にしかならず、実質的に社会的に自由に平等で生きるというためには、
実質的平等や実質的自由が必要だという事があります。
例えば貧乏な家庭環境に生まれた子供は、そのままの形式的自由や形式的平等なら、
理論上は公立学校に通い、図書館で本を借りて自学で勉強して、学費はアルバイトなどで
お金を貯めるか、『努力』して勉強をして特待生になればいいじゃないか、
という人も新自由主義者の中などでいまだにいますが、他方、裕福な家庭の子供は、
進学塾に通って私立学校で恵まれた教育を受け、学費を気にせず私立大学に入る、
極端な例では、お金を積んで一流私立大学の付属である幼稚園や小学校にお金を積んで
入学して、あとはエスカレーターでたいして勉強せず一流私立大学を
卒業する、という不正、ないし不公正な現状がある例などがわかりやすい
かと思います。その他、単位あたりの賃金の安い労働者は長時間労働を
しなければ生活できず、「参政権」などあっても、生活に手一杯で政治を考える
余裕もなく、またその政治的判断を行うための情報を得る手段が、
時間的、経済的に限られる、ということなどが例、要は「機会の平等など実質的平等」
による「実質的自由」の必要性の例としてあるかと思います。
『東京湾に米軍基地を!』
ここのところ取りざたされている小沢幹事長の問題ですが、小沢氏に関しては検察が不起訴にし、
検察審議会が起訴相当と判断した問題以外にも、いろいろな疑惑があり、少なくともそれらについての
説明義務が、与党幹事長として、また国会議員として、国民、有権者に対して必要なことは、当然かと思います。
では幹事長職を辞任すべきか、ということについては、現在の民主党を取り巻く世論を考えれば、
党と政権のためならば、辞任する方がメリットとしては高い、と個人的には思い、何故幹事長職に
そのままいる必要があるのだろう、と思ってしまいます。もしも党内の党派争いのためにしがみついている
としたら、それは政治家として国民に負っているはずの、全体の奉仕者という意識の欠如ではないかと
思ってしまいます。
いきなり話題がタイトルとズレてますが、鳩山政権は日米安保問題で、県外移設を断念し、
県外移設は党としての公約ではない、と発言していますが、党の要職の発言は党としての見解であるのが、
現代政党として当然なもので、これは認められるものではないかと思います。
沖縄県民の方々の怒りは頂点に達されていらっしゃるかと思いますが、実際、本州に米軍基地はあっても、
全体の一部で、ほとんどの国民は「基地がある生活」を想像できないでいます。そのため、総論賛成各論反対で、
どこの地域も受け入れを表明しないで解決が困難になっています。
実際問題として、「米軍基地があっても何も生活に不安がありませんよ、経済効果があっていいですよ、安全ですよ」
というのが本当ならば、いっそ「痛み」を国民の4分の1の3000万人が平等に分かち合えるように、
東京湾の中央を埋め立てて巨大な米軍基地を作ればいいのではないかと思います。
倫理的推移律の問題として、原発や米軍基地を作る際、「僻地なら僻地ほど、『被害』を受ける人が少ない」という、
人頭主義的推移律で地方が選ばれているかと思いますが、それによって被害を受ける地域の住民は、
少ないということになりますから、国政への代表者に対する影響力が小さく、都市部の私たちは
「実際米軍の戦闘機が頭上を飛んでいくと、どんな感じなのか」というのが想像できず、結局「押し付け」をして
しまうという、地域エゴという意味で、極めて非民主主義的な状態で、この50年間来てしまいました。
以前、「東京に原発を!」という、大変ショッキングなタイトルの本がありましたが、それは「原発は安全だ」
という主張に対し、実際は原発を貧しい地方に、交付金と引換に押し付けてしまっている、という現状を批判し、
「安全ならば東京に作ればいいじゃないか、地方から長々とつないでる送電線を通っていくうちの、
ロスは膨大なものだ、安全なら東京に作れますよね?」という問題提起をなされた本でした。
仮に沖縄に「問題ない、安全」と主張して押し付けるならば、いっそ東京に米軍基地を作りましょう。
仮にもし本当に米軍が日本を守るためという名目通りにいるならば、首都を守るために、
なるべく多くの国民の近くに、基地があった方が安心なはずです。それを政治家が実際行うかどうかは
別として、矛盾に背を背けて問答無用で沖縄に押し付けるならば、沖縄は日本ではない、と、
言っているようなものではないかと思います。。。
○後記
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iPhoneのゲームの「DestinAnge どっとこむ」をやってみました。
iPhoneを持って1年くらいですが、実はゲームのアプリをあまり知りませんでした。
ですが、気がついたらいろいろゲームが出ていて、Simcityまで出てるとは
思わなかったです(^^;)
いくつかゲームをやってみたのですが、確かにiPhoneはゲーム機にもなりますね.
いろいろなゲームがありますが、面白かったゲームとして、DestinAnge(デスタン・アンジェ)
というゲームがありました。ラブコメが好きな方や、いろんなネタでニヤリとしたい方、
テンポのよいハイテンションなドタバタコメディが好きな方、切ないお話が好きな方にお薦めです。




『DestinAnge どっとこむ Vol.0 Liteパック』
iTunes App Store( http://itunes.apple.com/jp/app/id347243218?mt=8 )
『DestinAnge どっとこむ Vol.1 ストロベリーショート・パック』
iTunes App Store( http://itunes.apple.com/jp/app/id356221299?mt=8)
死ぬ二週間前に戻り、運命を3人の天使とともに変える、という物語から、
その後の物語という感じで、主人公と3人の天使、そして友人たちとの日常を
描いた物語ですが、非常にハイテンションで、テンポがよく、クトゥルフネタや
哲学ネタなどいろいろなネタが詰まっていて、思わずニヤっとしてしまう場面があり、
また、キャラクターのそれぞれの魅力が何気ない日常のストーリーの中で
際立って感じられます。
主人公は太助で、とあることで死んでしまうところを、「2週間で運命を変える」
という課題を天使から出され、3人の天使に助けられながら乗り切り、
その上での3人との絆を持っていて、元気で快活な人柄のようですが、
3人が来るまではまた違った人柄で、3人に会ったからこそ、現在のように
変わった、といえるようです。
それぞれ3人の天使はヴァローナ、チャイカ、アリョールと、個性的なキャラで、
ヴァローナは優しく良識的ですが、内に感情を秘めるタイプで、
逆に感情をそのまま出してよくいえばありのまま、悪く言えば子供っぽいチャイカに
振り回されつつも、お姉さん的に見守っている、という感じで、
慎み深くも感性豊かな優しい性格です。
チャイカは、大人なお嬢様的なレディに振舞おうと背伸びをしつつ、
子供っぽいキャラとうろ覚えの記憶で、ハチャメチャな言葉や行動を
結果的にしてしまう、ハチャメチャキャラですが、太助とヴァローナを
振り回しつつ、反抗しつつも、お兄さんお姉さんのように、頼りにしている、
実はナイーブな人柄です。
アリョールは非常に理性的、論理的で、ヴァローナと違った意味で良識的ですが、
行動や発言には合理的な理由がある、という理詰めな性格で、あまり感情を表に出さず、
本人も普段は感情を意識していませんが、いざというときに表に出る、自らの
人間本性、「助けたいから助ける」、「嬉しいから嬉しい」という、
内なる心の中の純粋な感性をもち、戸惑いつつ、そのような感情を
素直に出せるチャイカや、感性豊かなヴァローナに対して、保護者的に見守り
つつも、憧れているように思えます。
そのような魅力的なキャラクターたちが、ノリのよくハートフルな
ストーリーで、ドタバタラブコメディを繰り広げます。
Vol.01まで出ていて、Vol.01はハートフルやドタバタ、
切ないお話など、いろいろなストーリーを楽しみつつ、
キャラクターの魅力が生き生き発揮され感じられますが、
お試し版でもそのキャラの魅力が楽しめるので、お薦めです。
Team Dynamis様のHP 『DestinAnge』(デスタン・アンジェ)
http://homepage2.nifty.com/Dynamis/menu.htm
◯後書き
そのように、非常に面白くハートフルなラブコメディですが、
存在としては天使ですが、3人というと、いわゆるローマ・ゲルマン神話の、
ノルン(複数だとノルネンだったかと思いますが)、「過去」「現在」「未来」を
紡ぐ運命の女神を思い起こす方もいらっしゃるかと思います。
ただ、運命を司る天使ではありますが、どちらかというと、時間における運命ではなく、
運命のおける人間性、つまり、いわゆるカントの分類でいう「知・情・意」の三つを司る、
順序が先程と異なって申し訳ありませんが、「知(純粋理性)=アリョール」、
「情(判断力)=チャイカ」、「意(実践理性)=ヴァローナ」と、人間存在の3つを司る天使、
ということになるかと思います。ストーリー中では哲学的内容も多々含まれていて、
そういう意味でも面白い、おすすめのゲームです。

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